「僕の歩んできた道(高校〜大学院時代)」
高校時代
高校は都立三鷹高校に通った.女子バレーボールの生沼氏(モントリオールオリンピックの頃,よくバレーボールの解説をしていた)や女優の岩下志麻(象印のポットの宣伝で,電通社員と漫談に近いコマーシャルをやっている)が先輩にいる.僕が中高校生の頃,ほんのちょっと売れたアンデルセンという3人組のアイドルグループの向かって右の人も,先輩であると言う話を在学時代聞いたことがある.
通学に片道1時間30分を費やしていた.この時間は,もっぱら読書に使っていた.本当によく本を読んだと思う.この時代が一番,本を読んだのではないだろうか.「斜陽」を読み太宰治に凝り「人間失格」で太宰を嫌い,「幸福な家族」で武者小路実篤に傾倒したり.そういえば「太宰は嫌いだ」といったら,太宰を信奉している同級生から泣いて訴えられ,「太宰治のお墓参りに行こう」と言われ一緒に行った.高校の近くに太宰治のお墓があったのだ.でも,その帰りの八幡神社でお祭りをやっていて,夜店のゲームの方がよっぽど楽しいと思ったことを憶えている.かと思えば,庄子薫の「あかずきんちゃん,気をつけて」から始まって,立松和平の「光の雨」など反体制的なものも読んでみたりして.そうかと思えば,推理小説(特にエラリークイーンが好きだった,ドルリーレーンシリーズには夢中になった),星新一もの,小林信彦のオヨヨ大統領(これは中学時代から)シリーズ,一時断筆宣言していた筒井康隆,三好達治の測量船等の詩集,映画の原作物等など,種々雑多に読みまくった.
もちろん,中学時代から引き続いて映画はたくさん観た.洋画,邦画かまわずたくさん観た.当時,ハリウッド映画の走りだと思うが,大金をつぎ込んだパニック映画が大ブーム.「タワーリングインフェルノ」,「ジョーズ」などはこの頃だと思う.スティーブ・マックイーンに憧れていた,いや今も憧れている.テータム・オニールが好きで,映画雑誌の「ロードショー」や「スクリーン」,「キネマ旬報」に彼らの記事が載っていると,小遣いをはたいて買った.そして本気で映画俳優か監督になりたいと思っていた.今は渋めの俳優になっているジョン・トラボルタがブレイクした「サタデーナイトフィーバー」もこの頃で,高校の友人とロッカーの前で,この映画の感想を話し合ったことも記憶にある.この映画がきっかけでビージーズという音楽グループを知り,「小さな恋のメロディ」等の彼らの作品を聴くようになる.
これがきっかけで本格的に音楽,特に洋楽に興味を持ち始め,大学時代に引き続くのである.洋楽ではクイーン,ビートルズ,邦楽ではチューリップ,オフコースが好きだった.ちょっと恥ずかしいのだが,沢田聖子(“さわだ しょうこ”と読む.イルカの妹というキャッチフレーズで売り出していた)も好きだった.当時彼女は,吉祥寺にある文化女子大付属高校に通っている女子高生シンガーであり,高校が近いことが嬉しかった.文化祭に行けば会えるのではないかとか,井の頭公園の池で,彼女と同じ高校の制服を着ている女子高生がボートを漕いでいるのを見つけると,わざとぶつけて「ごめんなさい.あれ文化女子大高の子?沢田聖子のサインもらってくれないかなぁ.」等という,極めてくだらない作戦を友人と考えたり.もちろん実行はしなかった.ひとりで彼女のコンサートに出かけたら,やけに狂信的なマニアファンに友達になろうと声をかけられて,何かいやな気分になって以来,彼女のコンサートには行かなくなった.
勉強については,この頃,よく勉強したと思う.上記のような話を書いた後で真実味は極めて薄いが,勉強は良くしたと思う.数学は3年間を通じて10段階評価で,ずっと10をもらった.つまり,3年間を通じてテストはすべて100点という極めて嫌な奴であり,今からはとても信じられないことをした.この頃,本当に数学が好きだった.また,前に書いたように本も好きだったので,文学部行こうか,数学科に行こうか等と甘い考えをしていたが,何事も好きにならなければうまくいかないということを学んだ.
浪人時代
いろいろな考えの下で,すんなりとは大学に進学せず(できず),1年間,駿台予備校に通う.この年,大平首相(当時)が亡くなったり,ジョン・レノンが暗殺されたり.駿台予備校では,最近出版された「磁力と重力の発見」を執筆した山本義隆先生に物理を習った.結構衝撃を受けた.でもこの頃,よく「なんでこんなことしているんだ」と思っていた.トイレでしゃがみこんでブツブツひとりごと.ノイローゼになってたかもしれない.この頃,同じ高校から予備校に通っていた友人と将来について話し合った.なんとなく研究者とか話していたかな.本当になるとは思っていなかったが.政治的な議論もよくしていた.正義の味方になったつもりでいた.
大学1年生〜3年生時代
早稲田大学理工学部土木工学科に進学した.入学式に行ってびっくりした.男子校に入ったのかと思った.男女共学の都立高校から進学したので,これにはまいった.
勉強は・・・・したと思う.いや,ごく普通に勉強していた.基本的に勉強しない人たちが多かったからか普通に勉強していたら,卒業するときに表彰状と革バンドで金色の腕時計を大学からいただいた.でも1年から3年までは,本当に目標を失っていたと思う.講義サボって遊んだり,クラブ活動したり,男子校みたいな状況だったから男女共学高校出身の利を活かして女子大に通う高校時代の同級生のつてで合同コンパしたり.そしてよく飲みに行った.高田馬場駅の近くのパブ・サントリーという飲み屋によく行った.大学2年生から,サントリーのホワイトというボトルを店にキープしていた.そう,2日おきに飲みに行っていたかなぁ.
大学4年生〜大学院博士前期課程時代
大学4年生になり研究室に所属するようになって,本当の意味での勉強をした.まさに学問との出会いである.縁あって土質研究室に配属.森麟先生(早稲田大学名誉教授)のご指導を受ける.本当の勉強,学問を始めたのは,この時点からであるとはっきり言える.数多くの論文を貪るように読んだ.数多くの実験を行った.たくさんの実験装置を手作りした.膨大なデータをパソコンで打ち込んだり,解析したり.月曜日から土曜日まで毎日8時30分〜22時30分の間は,研究室・実験室にいた.正直つらいと思うこともあったが,泊り込みの実験では,何か合宿しているみたいで楽しくもあった.当時,TVでは深夜テレビ番組が豊富で,同年代の女子大生がキャーキャーやっていた番組などを泊り込んでいる研究室の先輩・同輩と観て楽しんだ.番組に夢中になりすぎてデータサンプリングの時間を忘れちゃったりして・・・
この頃は,クリスマスも自分の誕生日も,楽しいときや悲しいときも,研究室のみんなで,研究室で過ごした.朝食も昼食も夕食も,研究室のみんなと一緒だった.早稲田大学理工学部には生協食堂が2種類あり,一箇所は比較的価格の安い食堂で,もう一つはやや高価格の食堂(理工レストランという名前だが,ブルジョア食堂と呼んでいた)があった.価格が安いとはいえ前者の食堂には,定食,麺類,カレーの定番メニューの他,鉄板焼き,寿司(にぎりも並から特上まで,ちらしもあった),とんかつ(これも5種類くらいのメニュー)があった.ブルジョア食堂では,アイスコーヒーが食後に出てくるステーキセットや夕方にはジョッキビールがサービスされていたので,朝昼晩めしとすべて生協で済ますことができた.近くにも,「百七十番」という中華飯店や,麺をかき分けてもなかなかワンタンが発見できないほど大量の麺が入ったワンタンメンを出してくれる「めとき」というラーメン屋があり,よく行った.「百七十番」は,とても素晴らしいご夫婦が営んでおり,研究室一同は大変お世話になった.すべてのメニューを食べつくしてしまった研究室のみんなは,2〜3種類のメニューを合体したものを注文したり.例えば,ニラ玉ライス(これは絶品の味だった.一番好きなメニューだった.食べたいなぁ)とチャーハンと肉丼が同時に食べたいと思うと「オレ,ニラ玉肉チャーハンね,おばちゃ〜ん」と店のメニューには無いものを勝手に名づけて注文してしまうのである.でも,ちゃんとチャーハンの上に肉丼の肉が乗り,横にニラ玉が供えられたお皿が出てくるのである.さすがだ.問題は支払いのときで,おばちゃんがいくらにしようか悩んでいた.次の日また店に行くと,店内に「ニラ玉肉チャーハン○○円」と真新しい紙に書かれたメニューが貼られているのである.
卒論発表会,修論発表会が終わって寝不足気味でも無性にお腹がすいて「百七十番」を訪ねた.おじちゃん・おばちゃんに,発表会が終わったことを報告すると,ビールが出てきた.お祝いだって・・・嬉しかった.研究室の後輩の結婚式の後,二次会まで時間があるので研究室のみんなで「百七十番」を訪ねたことがある.おじちゃん・おばちゃんは僕らを忘れていなかった.またビールをサービスしてくた,お祝いだって.間違いなく,大学4年から大学院時代に自分が居た場所である,この「百七十番」は.