家路の車窓
2001/7月号
2001/7/09月曜日
「自然と人工物」
先週は暑かった.記録的な猛暑であったらしい.ここ数日は,幾分すごし易い気温になっている.僕は,大学と最寄り駅の間を電車で10分程度費やして通っている.自転車に乗っている間は,風を切って走っているのでそれほどでもないが,駅に着くとドッと汗が湧いてくる.そんな時,冷房の効いた車内はこの上なく過ごしやすいものと感じるのである.しかし,しばらくすると汗も引いてしまい冷房の恩恵も忘れてしまうものである.人間と言うものは,(僕だけかもしれないが)受けた恩というものをすぐ忘れてしまうのだろうか?
話が飛ぶようであるが,僕の乗っている通勤電車は長距離列車であり,トイレが備え付けられている.これは非常にありがたいものである.皆さん,よく考えてみてください.電車の中で「もよおす」ことがあっても,目的地に向かいながら用を足すことができるのです.トイレの近い僕にとって,こんなに心落ち着いていられるのも,車内のトイレのおかげと言っても良いでしょう.毎朝,東京方面に通勤していらっしゃる方の中には,電車の中でトイレに行きたくなって困ったという経験をお持ちの方も多いと思います.話を元に戻すが,この車内のトイレには当然ながら冷房がない.冷房の効いた車内において,唯一冷房の影響が及ばない場所である.であるから,トイレには小窓があり通常開放されている.汗が引いてしまった後に,トイレでも行くかと思って入ると,開け放たれた小窓から入ってくる風がこの上なく心地よいのである.この心地よさは,汗をかいて冷房の効いた車内に入ったときの心地よさとは明らかに種類が違っている.言葉では言い表せないが,肌にやさしいというか,自然ななまぬるさというか・・・.やはり,これは自然のみが醸し出せる心地よさなのではないだろうか.また,この自然が醸し出す心地よさは飽きないというか,不思議といつまでも感じていたいと思うのである.汗だくになって冷房の恩恵を受けたにもかかわらず10分と経たずに,その恩恵を忘れるような,この僕にしてである.人間は,自然が醸し出す心地よさや利便さに触れると,その原理を調べ,その効果を最大限に発揮できるようにしてきた.そうしてできたものが,高性能な冷房機に代表される人工物である.徹底的に分解して原理・原則を理解し極め,さらにはそれを人工的に再現することにより,自然が醸し出す心地よさや利便さを数段良いものにしようとしている.しかし,結局のところ,数段上の心地よさとか利便さではなく,模倣した自然とはまったく異質のものをつくっているのではないかと思う.自然の妙は,よく分からないながらも,いろいろなものがブレンドされることにより醸し出される心地よさのように思う.徹底的に効率化されサッと汗が引く冷房機は,少なくとも自然ではない.心地よいと感じる自然を常に感じるような人間でありたいと思うと共に,心地よいと感じる自然に身を置く努力をしなければと切に思うのである.皆さんも是非試していただきたい.例えば,通常,自動車で行っているところを自転車で行ってみてください.否が応でも,呼吸数が増えますが,そのおかげで花の匂いを感じることができるでしょう.最初は,匂いを嗅ぐ努力が必要かもしれませんが,きっと忘れていた遠い記憶を呼び起こしてくれるような匂いに出会うことがあると思います.やはり,僕は自然が好きらしいです.
2001/7/20金曜日
「道理と合理」
いつもは風景とか車内での出来事をきっかけに徒然なるままに書いているが,今日は車内で自分がしていることをきっかけに書いてみようと思う.僕は本が好きで,家路の電車でよく読書をする.高校生の頃,今と同じように通学に1時間30分程度かけて通学していたが,このときも良く本を読んだ.今にして思えば,あの頃がもっとも本を読んだのではないだろうか.あの頃は,もっぱら推理小説ばかり読んでいた.その中で一番だと今でも思っているのは,エラリークイーン著のドルリーレーン・シリーズである.Xの悲劇,Yの悲劇,Zの悲劇といった名前は,皆さんも聞いたことがあると思う.このシリーズは悲劇3部作と言われているが,実は「レーン最後の事件」というのがあって,本当は4部作なのである.しかし,先の3つの悲劇が非常によく練られたトリックを描いた推理小説であるため,悲劇3部作と呼ばれている.へそ曲がりの僕は,この4作品の中で,あまり知られていない「レーン最後の事件」が最も好きで,おそらく私の一生において,これを越えるものは無いと思っている.僕は,この作品を通じて,推理を働かせ巧妙なトリックを解くという推理小説の醍醐味とは異なるものに引き付けられてしまったのである.つまり,主人公であるドルリーレーンの人柄にほれ込んでしまっているのである.エラリークイーンが作り出したドルリーレーンは,音を聞くことが出来ない元シェークスピア劇の名俳優で,これらの作品では名探偵として活躍するのであるが,彼の嗜好,人柄,人間くささまで克明に書かれており,目をつぶると彼の顔・形が容易に想像できるという雰囲気にまでなっている.ポアロやホームズは,まさに完全無欠の名探偵であるので,その人間的な部分は描かれてないように思い,ほれ込むまでには至らないのである.ドルリーレーンはもともと探偵ではない故に,その人柄にも目がいくのかもしれない
今は何を読んでいるのかと言うと,中坊公平ものである.中坊公平について書かれているものなら,何でも読みたいと思っている.彼は,ドルリーレーンのように,人柄が非常に明快でわかりやすい.なんとなく,彼の嗜好もわかるような気がするし,人間くさいのは言うまでもない.また,彼は本職が弁護士であるのに,組織の社長や様々な社会活動のリーダー的な役割もしている.いろいろな活動を行うにしても,常に弁護士としての視点から普遍的に物事を見て適切な判断をしている.これは,ドルリーレーンも同じで,常にシェークスピア劇俳優と言う視点から事件を見て適切にトリックを解き明かしていくのである.
中坊公平の人柄を感じる発言を覚えている.確かNHKのプロジェクトXに出演したときである.豊田商事事件で,お年寄りが騙し取られた年金等が豊田商事を通じて企業や税金として国に納められてしまった.これを返してほしいと中坊は訴えたのである.企業も国も契約書や法律の下で入手したお金であるから返さなければならないということではなかった.そこで,彼は「確かに理に適っている.合理的である.しかし,人の道に適っているのか?道理にそむいていないか?」ということである.衝撃を覚えた.法律には違反していないが,人として人の道に違反していないか?ということだ.研究などをしている場合,とかく論理的に矛盾がないかを詳細に考える.しかし,人や社会に役立たせるための技術開発研究の場合,技術的に論理に矛盾が無くすばらしいとされてきたものが,もしかしたら,人の道にそむいているものもあるのかもしれない.現代の環境問題など,まさにこれであると思う.最近発生している悲しい事件の後に起きている議論も同じように思う.法的には殺人者であっても人権は守られるべきであるが,人の道にそむいている部分は無いのだろうか?法とか合理は,一つの価値判断をするためのものであるが,その存在意義は人のためにあるのだと思う.論理をふるって勝利したとしても,人間的でなくなるのはなんとも悲しいことである.僕は,このような人間的ではない人間にはなりたくない.人の道,道理を何よりも考えられる人でありたいと思う.そうすることにより,ドルリーレーンや中坊公平のように,完全無欠ではない(これがまた良いのである)が,人柄のわかる人間くさい人間になれるように思う.