家路の車窓

2001/8月号

2001/8/07火曜日

 

「右脳と左脳」

今日200187日発刊をもって,写真週刊誌「フォーカス」は休刊するらしい.長年の愛読者であり,電車内での時間を有意義に過ごさせてもらっていた僕としては,残念なことである.「フォーカス」は俗っぽいと皆さん思っていらっしゃると思います.確かにその通りであり,そこが「売り」なのだと思う.この前のコラムのテーマと同じことになるが,新聞や雑誌など文章を中心として情報を発信するメディアは,読者に誤解の無いようにするために,論理的な整合性を大切にしていると思う.それに対して,テレビや映画のように映像を伝達するメディアは,そのまま目に見える映像を流すことを中心としているため,視聴者の感性によって,受け止め方,理解の仕方が異なる.そして,フォーカスは,論理が中心の雑誌に対し写真を中心にすることにより,読み物に感性を注ぎ込んだものだと思う.それ故,衝撃的な題材もあったと思うが,それが現実なのである.それが人間なのである.それを低俗と決め付けるのは論理的な思考しかしていないからだと思う.

論理的な思考は左脳で行い,右脳は感性を司ると言われている.いわゆる高等教育を受けていたと言われる人は,論理的な思考が良くできる.ところが,感性があまり鍛えられていない場合が多いように思う.研究者を例に取ると,彼ら(自分も含めて)はまさに論理的な思考を武器としているが,時に,いわゆる一般の人の意見・感想が「的を得た」ものであることを知っている.それをヒントに新しい研究が始まったりすることもある.女性の中には,きれいなお花を観賞したり,日常を感覚的に楽しんでいる人が多いように思う.我が家の義母や妻は,まさに感性の人で,彼女たちの感想は自分にとって「なるほど」と思わせるものが結構あるものである.

せっかく,人間として生まれ右脳と左脳の両方を持っているのだから,両方鍛える努力をしたいと思う.論理的思考を仕事としている人は,映画や絵画などを観て感性を磨き右脳を鍛える必要があるのではないかと思う.僕の第一の趣味は映画を鑑賞することであり,このコラムは,結局のところ,自分の趣味を肯定したかっただけかもしれないが・・・・.それも人間であるが故というところであろう.

 

2001/8/10金曜日

 

「夏休み」

夏休みの時期に入ると電車内の風景・雰囲気はがらっと変わる.高校生の通学がないとこんなにも変わるものかと思う.通学の風景が車内で見られるときには,こんな田舎を走っている常磐線も都会の電車のような活気・賑やかさがある.しかし,夏休みになり通学者のいない車内は,いかにも田舎で走っている電車のような,なんとも言えない落ち着きがそこにはある.この雰囲気は,大学時代に一人で電車に乗って旅したときに味わった車内の風景と似ていて,どこか懐かしさを感じてしまう.大学時代は夏休みになると,母親に「ちょっと出かけてくる」と言い残して上越線・信越線や東北本線の鈍行で魚津や郡山の方までぷらっと出かけたものである.夕暮れの車内で出会うおばちゃんたちとのたわいも無いお話がとても楽しかったのを覚えている.お金はないけれど無駄に過ごそうと思えばいくらでも過ごせてしまう時間が余るほどあった.そんな時間を使って,たまたま電車内で一緒になった人と話すことを目的によく一人旅に出てたものである.

しかし,通勤者となってしまった今,なかなか当時のような行動にはでられないものだ.なぜだろうか?時間の経過がそうさせたのだろう,きっと.学生の頃は守るものも無く,外からのすべてのものを吸収したいという感覚的な欲求があった.だから理性的な(論理的な)判断からくる気恥ずかしさとかは無く,ただ本能的な(感覚的な)欲求のみで行動していた.だから,相手がどんな人だろうか?話しかけたら嫌がられないだろうか?などとは考えず,自分の都合で話しかけていたように思う.社会人になって組織に所属することにより,また仕事を進める上で論理的な思考をトレーニングされ,衝動的な行動に出る前に,いろいろ考えてしまうようになったと,この僕でさえ感じる.高校生が車内で賑やかなのは,ある意味,彼らの感覚的な欲求で衝動的な行動として車内でも友人たちと大きな声で話すのであろう.それを好ましく思わないのは,論理的思考を中心とした人になったためかもしれない.

こんなことを考えながら書いていると,三好達治の「いにしへの日は」という詩を思い出した.「いにしへの日はなつかしや すがの根のながき春日を 野にいでてげんげつませし ははそはの母もその子も そこばくの夢をゆめみし・・・・」という詩だ.作者が旅の途中,汽車の窓から,母親と子が蓮華を摘んでいる風景を眺め「自分も同じように母と蓮華をつんだなぁ」と懐かしく思い,あの頃に戻ってまた蓮華摘みをしたいと思うのだが,最後に「ははそはのははもそのこも はるののにあそぶあそびを ふたたびはせず」と終わるのである.初めて読んだ高校生のとき,いったいどういうことか?と思った.そこに行って蓮華を摘めばいいだけじゃないかと思った.しかし,理性やしがらみというものをある程度持ってしまった今の自分には,この詩の意味が少し分かるような気がした.

メニューへ戻る