家路の車窓
2001/9月号
2001/9/03月曜日
「ハワイ紀行」
というタイトルであるが,もちろん電車で行ったわけではない.先週,夏休みをもらって,家族でホノルルに旅行に行った.そこでの出来事・思い出を常磐線の中で書こうというのである.僕は,今まで結構,海外渡航をしているが,その中でハワイが一番好きである.もっとも,ハワイは家族で2度行っているが,その他の渡航は新婚旅行のニュージーランドを除いてすべて仕事である.やはり家族との旅行はなんといっても楽しい.子供が旅先で様々な出来事に出会って成長し変化していくのが良く分かるからである.おそらく,皆さんの中には,歴史的遺産など無いハワイが一番好きだなんて,なんてミーハーなのだろうかと思われる方も多いと思う.ご存知のように,ハワイには世界史にでてくるような,中世ヨーロッパのような遺産などは無い.だから,良いのである.もし,歴史的価値のあるものがあれば,見に行かないではいられないのであるが,これが結構ストレスになる.仕事で一人で渡航するときには,歴史的価値のあるものを見に行くのは非常に楽しいと思えるのであるが,家族と一緒のときは,不思議とこれが面倒に感じるのである.理由は良く分からない.
今回の旅行では,5歳の息子とダイヤモンドヘッドに登った.これが非常に楽しかった.息子にとっても,きっと記憶に残るものと思う.5歳の息子にとって,あの高い山に登るのは,それなりの決意をしていたのだと思う.頂上までは何の問題も無く登りきった.頂上で,景色を眺めたり,息子は本当に喜んでいたと思う.また,頂上まで登ったと言う達成感もあったのだと思う.ここで問題が生じた.皆さんも,ある目標を達成すると満足感と共に心地よい疲労感を感じることと思う.おそらく,5歳の息子も同じだったのだろう.「眠たい」と言い出し,泣き出してしまった.でも,最後まで歩かせることにした.息子は泣き叫びながら下山した.登山口につく頃には,泣き止んでいたが,この登山で息子も少し成長したように思う.やはり,家族と一緒の旅のときには,自然の中で何かに取り組むということが楽しい.
ちなみに,この息子は「海には行きたくない」と言った.その理由を聞いてもなかなか言わなかったが,どうも「海にはサメがいる」ことを知っていて,それを恐れていたためのようである.この旅行の前に,ケーブルテレビで「ジョーズ」を見たらしく,このバーチャルな情報で,「海に入るとサメに食われる」という論理的な思考をしたらしい.何とか海に連れ出し海の深さを体験させ,サメの大きさを説明してサメは沖にいることを理解させた.バーチャルな情報はあくまで擬似的なもので,やはり実際の自然に身を置くことで分かることがあるように思う.その意味でも,ダイヤモンドヘッド登山で得たものは多かった.
2001/9/10月曜日
「友だち」
実は,今年の夏休みは非常に楽しいものであった.ハワイに旅立つ前の土曜日,中学時代の同窓会が20数年ぶりに開かれたのである.行く前は,みんなの顔を覚えていないし,思い出すことができるかどうか不安であった.いや,もっと不安だったのは,僕の顔を思い出してもらえるかどうかであった.みんなに覚えてもらってなかったら,同窓会に出席している間中,一人ポツンとしていなければならない.いや〜,本当に不安だった.しかし杞憂であった.脳の奥底にある記憶が呼び起こされたように,中学時代の顔が思い出されるのである.20年後の顔を見て,日常の記憶の中では忘れている中学時代の顔を思い出せるというのが,本当に不思議である.それからあだ名.あだ名をつけられるのが嫌だと思う人は多いと思う.僕も中学時代は,あだ名で呼ばれるのは好きではなかった.しかし,このあだ名は,脳の奥底にある記憶の一つであることを知った.40歳目前のオヤジが,中学時代のあだ名で呼ばれるのである.これが何だかうれしいのである.覚えられていなかったら・・・・この不安を解消したのがあだ名のように思う.僕の名前は秀雄(ひでお)なので,中学時代「ビデ坊」と呼ぶ人が何人かいたが,20年ぶりにその人たちに会った瞬間,「お・お〜,ビデ坊じゃないかよぉ〜」とくるのである.40歳目前の男が「〜坊」と呼ばれるのである.なんとも変な光景であったことだろう.
で,この同窓会で知ったことがある.人生の楽しみの一つに,旧友と思い出を共有し懐かしむことがあることを知った.特にこれは,健康でなければなかなかできない.健康が一番とよく言うけれども,本当にそうである.健康でそれなりに長生きしなければ,思い出を懐かしむことができないのだから.比較的丈夫な身体に生まれてきたことを感謝したい.
2001/9/12水曜日
「大事件」
なんとも悲惨な事件が起きた.アメリカの世界貿易センタービルやペンタゴンにハイジャックされた旅客機が突っ込んだのである.ハイジャックされた旅客機には,乗員や乗客がいたらしい.出掛けにテレビで,飛行機が貿易センタービルに突っ込むシーンが映し出されたが,目に焼きついてしまっている.乗客や被害者の無念さを考えると,本当に,心から犯人に対する強い憤りを感じる.どのような思いでこのようなことをしたのだろうか?まさに自爆テロであることから,実行犯は自分勝手な納得をして行ったことなのだと思うが,少しでも乗員・乗客やビルにいる人たちのこと,彼らの家族のことを,自分勝手な納得に到達する前に,その思考過程において考えなかったのだろうか?考えてほしかった・・・
日本でも5年程前にサリンを使ったテロが行われたが,このとき驚いたことは,捕らえられた犯人たちも,自分たちでよく考えた上で犯行に及んでいると言うことである.よく考えた上でなぜ悲劇的な結末になるのか?組織の上司に認められるため,組織の存在意義のため,組織の存続・利益のため,と彼らは言っていた.皆さんも良くご存知の事件なので,「組織」が何か,「上司」が誰か,「存在意義」は何に相当するかはご理解いただけると思う.でも,よく考えてみると,「組織」は会社,「上司」は課長・部長,「存在意義」は,会社の業務内容と置き換えることもできる.つまり,誰もが,これと同じ思考を日頃からしていると言うことである.こんなことを言っている自分を振り返ってみても,同じ思考をしていることが分かる.
しかし,社会とはこれだけではなく,身近な人間関係(友達)や家族などの大切なものもある.他にも気づいていない何かがあるような気がする.だが実際には,特に日本の社会人は,これらの人間関係よりも組織内でのことを重視する傾向がある.組織を強化するために,論理的な組織構造をつくるために,みな高度な思考をし,論理にそぐわない人間関係は排除しているのではないだろうか?したがって,狂信的な組織は,組織のためであれば人間関係は完全に放棄しても良い,という極論に到達するものもあり,今回のような事件を引き起こすように思う.
人間は「高度な思考」と引き換えに「種の保存」という本能を失っているところがあるのではないだろうか?本当に生物としてステップアップするためには,これらを包括した感情と思考を持たなければならないのではないだろうか?このような悲劇を再び起こさないようにするためにも・・・・・合掌.