家路の車窓
2001/10月号
2001/10/09火曜日
「コミュニケーション」
今日は,電車に乗ると同時に携帯のノートパソコンを開け,家路の車窓を書かないではいられなかった.電車に乗り座ろうとしたところ,先にいた女性が座った.それは良いのだが,まさに僕が座ろうとした場所(つまり,その女性の横)に鞄をデンと置いたのである.別にその人の横に座りたかったわけではない.その人も「他に席が空いているわよ」ということなのだと思う(確かに空いていて,今まさに,その人の前の席に座ってこれを書いている).しかし,なんとも不愉快な気分である.
今日の朝にも同じような気分を味わった.朝,最寄り駅から学校まで自転車で通っているが,横断歩道を渡っているとき,右折してきた車と出会った.運転手は「ちょろちょろして邪魔な自転車だわ.」という顔で僕を見ていた.僕も僕で「信号が青だし,自転車の方が優先だろ!!」という気持ちでいた.お互い不愉快な気分を持ちながらも,時間とともに些細な問題は解決した.しかし,その後の学校までの道のりで,いろいろ考えてしまった.例えば,自分が自動車を運転しているとき,自転車は邪魔と感じることは頻繁にある.つまり,立場が変わると相反する感情が芽生えるのである.人間とは,なんとも不思議な動物である.
ここで問題なのは,いずれもコミュニケーションがないことだと思う.最初の電車の中での出来事は,「私の横にこないで」「あ〜,いいよ.別の席に座るから」,という心の対話(?)があったかもしれないが,それ以上のコミュニケーションは無い.横断歩道の出来事も,顔を見合わせる以上のコミュニケーションはない.やはり,声を発した対話がないと,相手の立場を考えることができなくなると思う.だから,今回の2つの出来事は,僕も含めて自分の立場でしかものを感じることができなかった.
幾度となく話し合うことにより,相手の考えや立場が分かってくることがある.これを失うということは社会的動物である人間として退化することになる.非常に問題である.いつか長距離電車の中で見知らぬ人との会話を楽しむ話を書いたと思うが,これは非常に重要な行為になるような気がする.できる限り心がけようと決心した次第である.
2001/10/10水曜日
「世代交代」
2001年9月30日,東京ドームで行われる最後の試合を長嶋巨人軍は迎えた.翌2001年10月1日,長嶋巨人軍は文字通り最後の試合を甲子園球場で迎えた.いずれの試合も巨人軍の敗戦であった.ここに長嶋選手・監督の良さがあると信じる.僕は,長嶋選手・監督の「かっこよい」負け方が大好きである.選手時代の「かっこよい」場面でのホームランも然ることながら,ヘルメットを「かっこよく」落としながらの三振も,また長嶋選手なのである.ちょうど9月30日は,シアトルマリナーズのイチローが90年も破られなかったシューレス・ジョー(フィールド・オブ・ドリームスという映画でも出てくる実在の伝説の選手)の新人最多安打記録を更新し,ベルリンマラソンで高橋尚子が世界新記録のタイムを出すし,まさに世代交代の日という思いであった.
義母は「世代交代という言葉は,何となく寂しい」といっていたが,確かにそのとおりである.自分の憧れの人や目標とした人が引退してしまうということは,自分のやる気を殺がれるという感が無いとはいえない.しかし,いつまでもその人に頼っていては自立もできないのである.まぁ,人は頼りあって生きていることの証だと思うが,いつかは自分が憧れられたり,目標と思ってもらうことが必要である.そうやって,今度は自分より若い世代の人と頼りあって生きていくことになるのであろう.しかし,このときに生じる不安が「寂しい」という感じが持たれるのではないかと思う.でも,今までの人間の歴史においても,英雄の後に新しい英雄は常に生まれつづけている.人類にとって何も不安は無いのである.また,ここで大事にしたいのは,個人的に「寂しい」と思ってもらえる人が一人でもいるということである.こんな人間にどのようにすればなれるのか?僕の永遠の課題だと思う.