家路の車窓
2002/05月号
2002/05/02木曜日
「高熱隧道」
吉村昭著の「高熱隧道」という小説をご存知でしょうか?僕が学生時代(ですから,約20年も前ですが),読んで感動したトンネル工事のお話です.ご存知のようにトンネルはTunnelという英語で,日本語では「隧道(ずいどう)」と言います.むしろ日本語訳の方が知名度が低くなってしまっている用語と言っても良いでしょう.私も20年前,この本を通じて隧道と言う言葉を知りました.
僕は「地下構造学」という講義を担当しているので,これを機会に地下を掘る技術について幅広く知識を得ようと考え,トンネル工事にまつわる小説を読もうと思いました.学生時代にコンサルタント会社でアルバイトした際に地下水調査のお手伝いで富山県の宇奈月に滞在し,この地で大変な難工事があり,「高熱隧道」という本になっていることを教えてもらいました.このお話は,黒部第三発電所建設に伴う隧道工事のお話ですが,160℃にもなる岩盤を如何に人間は貫き隧道を建設したか,というロマン溢れる小説です.この本に出会って,壮大なトンネル建設の物凄さ,苦難に立ち向かう人間のたくましさに強く感動したのを覚えています.この本を読んだ頃,ちょうど青函トンネルの先進導坑が貫通したこともあり,試験勉強そっちのけでテレビにかじりついていました.確か大学2年生の教養科目で「電磁気学」の試験が午後にあったのですが,その日の午前中に青函トンネル先進導坑の貫通のための最後の発破工事が行われテレビ中継されていました.土木工学科の当時の同級生と生協の食堂にあるテレビで観て,貫通の際には大きな歓声を挙げ騒いだのを覚えています.何か熱いものを感じました.おそらく同級生みんなも同じ気持ちを感じていたと思います.この熱い何かが,今の僕の思考回路の中にあるのは確かだと思います.
しかし,今回「高熱隧道」を読み返してみて,全く違った印象を持つことになりました.工事の壮大さ,人間のたくましさを感じることはできるのですが,それにも増して何故こんなにも多くの犠牲者がいるのかという思いが強く感じられました.難工事の前に犠牲者が発生しつづける中,もちろん小説に登場する技術者は,これ以上事故をおこさないように最大限努力するのですが,強靭な自然の前に何度も敗北することになります.
しかし,この多くの犠牲者のおかげで,日本は世界に誇る土木技術を手に入れたのです.僕たちが今,このような生活ができるのも,当時の犠牲の上にあるのは事実です.このように思うと,学生の頃に感じた熱い何かではなく,感謝と祈りの気持ちが込み上げてきます.この感じ方の変化は,様々な経験を通じて,僕自身が変化(進化)していることなのかもしれません.
2002/05/02木曜日
「黒部の風景」
引き続き,アルバイトで滞在した黒部川の風景を思い返しながら,当時を振り返りたいと思います.この地下水調査のアルバイトは,自分にとって非常にインパクトのあったもので,調査用の横坑(おうこう)に丸一日一人で留まり,技術者とトランシーバーで連絡を取り合い,一定時間毎に地下水を採りに行くというものでした.横坑の中は真っ暗闇なので,ヘッドライトを装着しているのですが,そのヘッドライトに分けのわからない虫が取り付き,そのシルエットが拡大されて目の前に広がるのでびっくりしたのを覚えています.トランシーバーは2回線あって,A回線が事務連絡用の回線として使われました.どんな事務連絡があるのかというと,「今から弁当を持っていく」というのどかな連絡から,「上流のダムで放水を開始したから直ちに斜面上部に退避しろ」という,「おいおい」と言いたくなるような内容もありました.アルバイトは,僕ともう一人大学のクラスメートの2名で,そいつと相談してもう一つのB回線を使って,余りある時間を使って横坑間で世間話をしたのも良い思い出です.回線を間違えて調査隊長に怒られたりもしました.
ところで皆さん,丸一日横坑にいたのだから,どこで用を足したと思いますか?当時,僕もどうしたものかと思い隊長に訊ねました.「その辺の草むらでしろ」という回答です.そんなに育ちが良いわけではありませんが,東京育ちの僕には「えっ!!」という感じでした.「紙を持っていない.持ってても横坑内の地下水でびしょ濡れになって使えない」と返すと,「その辺の葉っぱでふけ」...なんとも...と思っていると隊長は,「あんまり草むらを歩かないほうが良い.前の人の用便を踏むから」.まぁ,こういう世界もあるんですね.
ということで,隊長の言い付けどおり,大自然の中で用を足すと言う経験をしました.そのときに観た風景は,なんとも素晴らしかった.午後3時頃だと思いますが,眼前の黒部川渓谷を深い霧が覆い隠し,その向こうから黒部峡谷鉄道のトロッコ電車のライトが幻想的に輝いているのです.今でも忘れません,その風景は.自然の壮大さ,神秘を感じた一瞬でした.自分は,この自然の中でなんとちっぽけな存在なんだろうと感じました.でも,その自分も自然の風景を形づくっている存在だと言う思いも感じました(用を足していたのですが...).いつか,もう一度行って見たい,もう一度あの風景に自分を置いてみたいと思っています.