家路の車窓
2002/09月号
2002/09/05木曜日
「時流を創る」
オリジナリティ重視・個性重視か?没個性・大衆迎合か?僕は絶対に死ぬまで前者を「善し」とし,後者を選ぶようになったなと思うときには教官を辞めようと考えています.僕がテーマとして選んでいる研究課題は,取り組み始めた時期には全くの「亜流」でした(今でもかな?).現在は,学会等で多くの皆さんから質問をいただいたり関心を寄せていただいていることが実感でき大変嬉しく思っています.しかし,僕が研究者として駆け出しだったとき,学会発表をしても誰にも質問されず,個別に意見を言いに来てくれたと思ったら「何でこんなことしているの?」と言われ,大学時代の指導教授を訪ね,取り組み始めた研究内容について話してみると,ほんの少し聞いただけで「いや〜大変なテーマだね.」と一言.それ以上聞きたくないという感じで話をそらされてしまったことを覚えています.この指導教授は,力学中心の工学分野に対して化学的な側面からアプローチしていた個性派の先生であったにも係わらず,先のように感じられたようです.
後は意地ですね.物になるかどうか?と言う計算はしませんでした.周りの人に聞けば必ず,「物にならない」と言われるのが落ちでしたから.計算すれば,必ずマイナスという答えですからね.自分を信じるしかないわけです.どこかプラスに計算される別な道があるはずと信じるしかないでしょう.確信や根拠なんてありません.信じて進むだけでした.当時の学会や研究所で主流の研究を“かっこよく”進めている人たちをうらやましく思い,僕も主流を進みたいと思ったことは何度もありました.
しかし,今思うと主流を進まなくて良かったと感じています.誰もやっていない亜流に取り組んでいることが自分のオリジナリティや個性になるんですからね.ある意味で主流を安易に選ぶのは,没個性であり大衆迎合なのではないでしょうか?多くの人がやっていることと似たようなことをしていると安心するという気持ちもあるのではないでしょうか?
その時の流行,「時流に乗っている」人はかっこよく見えますよね.でもきっと,その人は時流に乗っていると思っているのでなく,「時流を創った」と思っています.なぜなら,その人がその問題に取り組みはじめたときには,流行でもなんでもなかったのですから.人と異なることを進め成果が挙がり多くの人々の関心が向き始めた後の姿を,他の人から見て,あの人のやっていることは時流に乗っていると感じるのです.しかし本人にとっては,時流に乗った姿ではなく,「問題に取り組み始めた頃の自分」,「誰も関心を寄せてくれないけれども問題に没頭している頃の自分」の姿が最も美しく自信に満ち溢れるものであり,「時流を創った」という自負を感じるのだと思います.皆さん,流行に惑わされず,「新たな時流を創ってみせる」という気持ちを持ってください.
2002/09/05木曜日
「喜怒哀楽」
わが息子は喜怒哀楽が激しい.自分の思い通りにならないと激しく怒り,遊んでいるときは楽しそうに笑いながら駆けずり回り,オモチャを買ってもらったときはものすごく嬉しそうに,映画の悲しい場面では「涙が出てきちゃった」と言って悲しんでいる.父の葬儀の際に,僕や兄が涙を流すのを見て「大人の男の人も泣くんだね」と言われた.僕は「悲しいときには,泣くのは当たり前だよ」と言った.喜怒哀楽は,人間の本質である.
しかし,最近は喜怒哀楽を前面に出す若者が少ないように思う.負けて悔しいはずなのに笑っている.喜怒哀楽が麻痺してしまっているのではないか.頭にきたときには烈火のごとく怒るべきである.
僕はかなり喜怒哀楽が激しい...と,僕と付き合ってきた人は言う.教官になってからは意識的に抑えるときもあるが,基本的には,感じたままを学生のみんなにぶつけることが多い.僕からいろいろ言われたら,悔しく思って欲しい.悔しいと思ったら,次の時には言い返してやるという意気込みを持って欲しい.
では,どうすれば喜怒哀楽が出せるようになるか?僕は,心に染みるように感動する映画を観て泣くようにしている.日本テレビが8月に行う24時間テレビも結構泣ける.何を隠そう,間寛平が100kmマラソンをはじめて完走したときは,妻の前でオイオイ泣いてしまった.何かにつけ,このことを今でも妻は笑い話の種に持ち出すことがある.いいじゃないですか,泣いたって.感動したんだから.これからも大いに感動していきたいと思う.