家路の車窓

2003/08月号

2003/08/01金曜日

 

「毛利さんの博物館」

休日に,家族と「日本科学未来館」に行ってきました.NHKの朝の連続ドラマ(8:15〜)の「まんてん」は,ずいぶん前に終わってしまいましたが,毛利さんが登場されていた博物館がそれです.非常に良くできた博物館で,大人の私が楽しんでしまいました.お台場にあるので,車で常磐高速,首都高を使えば,1時間ちょっとで到着できます.この博物館には,各ブースに専門スタッフやボランティアの方々が張り付いていて,デモンストレーションや質問に丁寧に答えてくれるのが,とても良く,勉強になりました.いままでの博物館はほとんどがパネルで説明が書かれていて,それを読むという状況でしたが,この毛利さんの博物館では,直接現象を見たり,自由に質問することができスタッフ・ボランティアの方々と触れ合うことができるのがとても良いシステムであると感じました.子供たちも,また行きたいと言っておりますが,本当に行きたいと思っているのは,この僕かもしれません.

今,理系離れが問題視されています.僕の理解では,理系と呼ばれる人たちは,自然現象や社会現象と対話する人だと思います.少なくとも,私の分野では,このようなものと理解しています.自然現象や社会現象と対話するツールとして「数学」があるものと思います.はじめから,解くべき数式が存在するのではありません.自然界・社会では,こんな不思議な現象が起きていることを認識し,概念化して,それを定量的に示すものとして数学を使って考えていくというプロセスだと思います.しかし,自然界・社会で何が起きているか?それを頭の中でイメージ化する機会が,今の日本の学校教育において極めて足りないように思います.「毛利さんの博物館」は,自然界・社会での現象の認知,概念化を促すのに非常によく整備された施設であると感じました.

ところで,この「家路の車窓」の後半の教育に対する考え方を書いていて,「ハッ!!」としました.以前にも書きましたが,今は亡き父親は教育者でした.親父,僕もすっかり,親父に似て教育というものを考える人間になりつつあるようです.遺伝子に刷り込まれているのかなぁ.

 

2003/08/01金曜日

「なぜ,僕は僕なのか?」

皆さんは,こんなことを考えたことはありませんか?自分の考えていることは分かるのに,なぜ,他の人の考えていることは分からないのか?電車に乗っているといろいろなタイプの人がいます.降車駅まで,文字通り船を漕いで眠り込んでいる人,音楽(どうもクラシック音楽のようです)をウォークマンで聞きながら,指揮者のように大きく身体を揺らしている人.いったい,この人たちは,日頃どんなことを考えているのだろうか?皆目分からないのですが,電車の中でパチパチとパソコンのキーボードを打っている僕の考えていることだけは分かる.

僕が考えていることだけが,僕には手に取るように分かるのに,僕以外の人の考えていることは分からない.なぜ,僕の考えていることだけが分かるのだろうか?なぜ,僕は僕として生まれてきたのだろうか?ちょっと宗教的に感じられるかもしれませんが.そういうのではありません.

どうも,実験が大好きな研究者であるためか,何でも客観的に観察しようとする癖がついているのかもしれません.以前「主客未分離」で書きましたね.自分自身は主客未分離であるべきものなのかもしれませんが,分離して考えようという無理をしているのかもしれません.

が,不思議でならないんですよね.自分の心だけが分かるというのは.血を分けた親や子供たちの心も分からないんですものね.自分の存在というのは,どのような意味があるのか?なんか哲学者か宗教家になった感じですが,今,僕の心の中では,そんなことを考えています.・・・ということで,不思議な「家路の車窓」になってしまいました.

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