家路の車窓
2004/02月号
2004/02/04水曜日
「日本人気質に関する一考察」
ずいぶん昔になりますが,亡き父があるとき,こんなことを私に問いました.「まったく自動車が往来していない道路を渡ろうとしているとき,目の前にある信号が赤だったらどうするか?」という問いです.自動車が影も形もなく,絶対に安全な条件であるにもかかわらず,目の前の信号が赤だったらどうするか?というのです.皆さん,どう考えますか?
赤信号は渡ってはいけないというルールなのだから,止まるべきというお答えの方が多いでしょうか?道徳なのだから,とお考えの人も多いと思います.渡ってしまう,という人もいるでしょうね.
父は「青年の船」という,学校の教員が東南アジア諸国を訪問し研修するという確か当時の文部省のプロジェクトの団長として,私が小学校2年生ぐらいのときに海外出張をしました.東南アジアのある国にて,上記のような場面に遭遇したそうです.その国の人々は,赤信号を無視して,どんどん渡っていたそうです.近くに警官もいたのですが,咎めたりはしなかったそうです.
まだ小学生だった私は,「赤なのだから渡ってはいけない」と答えたように記憶しています.それに対して教育者である父は,「なぜ?」と問い返してきました.さらに,父はこう付け加えました.「“赤信号を渡ってはいけない”という意味は,“自動車と衝突することを避けるため”である.まったく衝突する可能性のない場合には,“赤信号を渡ってはいけない”というルールは無効なのではないか?」と.こういう主張なのです.
最近,このことを思い出した理由は,学生の皆さんが公式を覚えようとする勉強の仕方が少し気になったからです.小学校から勉強が始まると覚えることが多いですよね.ある意味においてはしかたのないことかもしれませんが,やはり気になります,これで良いのか?と.
何を申し上げたいのかというと,“赤信号”イコール“渡ってはいけない”という公式を覚えていて,“赤信号を渡ってはいけない”前提条件を考えていないのではないかということです,特に日本人は.日本人の気質・生活習慣には,このような物事や価値判断に対する公式的な対応が深く根付いているのではないでしょうか?ちょっと屁理屈のようにも感じますが,「なぜ?どうして?」と考え,納得できなければ,こだわって考え,どのように判断し行動するか考えるべきなのではないでしょうか.
2004/02/04水曜日
「鉄道のアナウンス」
なぜ,鉄道のアナウンスは聞こえないのでしょうか?今,電車が停まっており,その車中でこれを書いています.なぜ,情報が無いのでしょうか?どのぐらい停車してしまうのか?大体で良いから教えて欲しいと思います.多少間違っていても良いのです.このようなとき,なぜか車掌さんや駅構内のアナウンスの声が低く,非常に聞き取りにくく感じます.これが,さらに人々を苛立たせているということを鉄道会社の方々は分からないのでしょうか?「どうにもこうにも,しばらくは動きそうもありません」とはっきり言ってくれた方が気が楽になります.情報の発信の仕方によって,かなり印象が違うのです.情報が正しかったとか間違ってたとかは,組織として重要なのでしょうが,被害にあっている個々のユーザーはただ情報を求めているのです.良い情報であれ,悪い情報であれ.
ただ,このような事故の後に,マスメディアが責任を追及をするかのように組織に情報の正確さを求めることがあります.これに対する防衛なのかもしれません.
しかし,鉄道会社の皆さん,よく考えてみてください.お客さんがお金を払っているんですよ.お客さんの要望を第一に考えてください.マスメディアが何か言ってきたら,お客さん代表で「情報は間違っていたかもしれませんが,よく聞こえる声で状況を逐次報告していただいたので,イライラしませんでしたよ」とインタビューに答えますから.
それからもう一つ提案です.車掌さんにボイストレーニングをしてもらうというのはどうでしょう.聞き取りにくいアナウンスほど頭にくるものはありません.誠意が感じられませんから.最近は女性の車掌さんがいますよね.非常に良く通る声でアナウンスする姿,とても清々しいです.少しぐらい電車が止まっても許せてしまいます.どうですか,鉄道会社さん.