家路の車窓

2006/03月号

2006/03/08水曜日

 

「教え,教えられ4年間」

学年担任をしている学生たちが卒業していきます.4年間学年担任をしてきてあらためて,本当にかわいい学生たちであると思えるし,大切な仲間であると勝手に思っています.そして多くの担任学生と話した内容から,気付いたり考えたりしたことが,この「家路の車窓」のテーマにもなったりしました.大学1年から4年に相当する時期は,人がもっとも大きく成長する時期です.少年から青年に変化していく時期で,こんなことを言うと担任学生たちから怒られちゃうかもしれませんが,入学当時は“子供だなぁ”と思っていた人達が,卒業を迎えるこの年になると“立派になったなぁ.大人になったなぁ”と思い感慨深いものがあります.また,このような大切な時期を生きる人達と教育を通じて接する大学教員という職業は,責任の重い職業であることも痛感しました.

こんなことを考えてあらためて,「教育」という用語を広辞苑第5版で調べてみました.いつも学生諸君に言っていることなのですが,論文を執筆するとき,“自分が知っている”と思っている用語でも必ず辞書を引き調べるよう指導しています.意味を誤解して覚えている用語が如何に多いか,また,思いもよらない意味があることを知ることに気付いて欲しいからです.また,論文を執筆する姿勢として,可能な限り誤解を与えないような文章表現を行うためにも必要なこととして,辞書を引くことを強く求めます.

おっと,例によって話がよこみちにそれてしまいました.えっと,何だっけ.そうそう「教育」の意味でしたね.広辞苑第5版によると,「教え育てること.人を教えて知能をつけること.人間に他から意図をもって働きかけ,望ましい姿に変化させ,価値を実現する活動」となっています.う〜ん,僕の「教育」という言葉から持つ印象とはちょっと違う感じがしますね.

結局,僕の場合は,良くも悪くも素の自分を見せて,なんらかの影響を与えることが教育だと思っています.その意味では,僕の場合は反面教師の部分が多いかもしれません.それでも,教員としての存在意義はあるのだと嘯いていますが.

まぁ,この4年間で教えもしましたが,教えられたことも多いし,担任学生から勇気ももらいました.今,自信を持って講義ができるようになったのも,実は,担任の学生たちのおかげなんです.そんな学生たちが,とうとう大学を旅立っていくのです.嬉しいような,寂しいような,ホッとするような,でももうちょっと頼ってもらってもよいような,もうちょっと近くにいて欲しいような,とても複雑な気持ちです.

 

2006/03/08水曜日

「別れるときの心模様」

毎年この3月になると思うことですが,大学を巣立つ学生諸君と大学に残る教員は,それぞれどのような心境なのでしょうか.もちろん,人によって違うとは思いますが,学生の中には「教員にとっては毎年のことなのだから,特に感慨はないのだろう」と思う人もいると思います.確かに教員にとって,別れのときは毎年来ます.しかし,その度に僕は,なんとなく寂しい気持ちになります.そう毎年3月になると,寂しくなるなぁという気持ちが出てきます.

その一方で,4月になれば新しい出会いもあります.これほど人と出会い,そして別れる職業は,他にはないでしょう.少なくとも前職のときよりも,明らかに「出会い」と「別れ」を意識するようになりました.そして今年,担任をしていた学年が旅立つ年を迎えて,最初に思い出されることは,彼ら彼女らが大学に入学し,ガイダンスではじめて出会ったときのことです.“別れ”に際して,もっとも鮮明に思い出されるのは“出会い”なんですね.そのコントラストというか,学生諸君の成長を強く感じることから“出会い”が思い出されるのかもしれません.

このような別れに対する心境からか,教員になってはじめて,毎年3月になると「別れ」や「卒業」をテーマにした楽曲が流行することを知りました.このことを認識するようにあったのは教員になってからであり,前職では報告書の作成に追われる3月という認識で,「別れ」を意識することはありませんでした.そして教員となった今,僕の耳の中ではMP3プレーヤーからコブクロの“桜”が流れています・・・・・・

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